アズールレーンの潜水艦「伊25」のキャラ情報、元ネタ(史実ネタ)などについて書いています。

名前 伊25
(i-25)
艦種 潜水艦
陣営 重桜 レアリティ Sレア
CV イラスト
登場時のセリフ
指揮官さんのおかげで、今日も一日頑張れますね

KAN-SEN「伊25」

  • 【公式の紹介文】
    温和で淑やかな性格の伊号潜水艦のひとり。
    カンレキの関係か、物柔らかな言動から想像できないほどダイタン(大胆)な一面も。
    実は寂しくなると倒れちゃう体質……?

  • 【ウサギ】
    アズレンの巡潜乙型(伊19、伊26など)はウサギ耳である。
    伊25は形状的にたれ耳がカワイイ「ロップイヤー」だろう。
    寂しいと倒れてしまう体質を持つ理由もウサギ故にか(アレは迷信なんだけどね)。

    ※その張り裂けんばかりの胸部装甲はシグニット相当、F~Gはあると思われる。
    胸部装甲に腕がすっぽり入る辺り、着ている服は特殊素材で出来ているのだろうか。
  • 【ダイタンとは!?】
    史実でアメリカに本土攻撃(通商破壊、砲撃、爆撃)を行ったことに由来するのだろうか。
    砲撃は陸軍基地を潜水艦基地と勘違いしたことで行われたものだが、単艦で返り討ちにあうかもしれない状況だったにも関わらず砲撃をしたのだから、大胆不敵過ぎる。
    アズレンの伊25もそのくらいダイタンなのかもしれない。
  • 【余談】
    アズレン公式での紹介では「ダイタン」ではなく「タイタン」だった。
    のちに訂正されている。
    ※指揮官の間でネタイラストが投稿されたとかされなかったとか…

元ネタ・潜水艦「伊25」

日本海軍が建造した巡潜乙型潜水艦「伊号第二十五潜水艦(伊25)」。
太平洋戦争では、アメリカ軍基地を砲撃し、アメリカ本土に空襲を行ったことで知られている。

  • 起工日:1939年2月3日
  • 進水日:1940年6月8日
  • 就役日:1941年10月15日
  • 最期日:1943年9月16日に消息を断つ

艦歴/戦歴

  • 【就役後】
    三菱重工業神戸造船所で起工し、就役後は横須賀鎮守府に配属された。
    伊24と第六戦隊潜水艦を編成。
  • 【第二次世界大戦(太平洋戦争)】
    • 1941年12月に真珠湾攻撃に参加。
    • 真珠湾攻撃に続き12月14日~翌年1月まで「アメリカ沿岸の通商破壊」に参加。
      他の乙型とともにアメリカ、カナダ、メキシコ西海岸に展開、アメリカのタンカーや貨物船などを撃沈した。
      ※多くのアメリカ市民の目の前で船を沈めるなど連戦連勝の勢いのまま作戦を行った。
      英米戦争以来の本土攻撃にアメリカ国民・政府の心理的ダメージが大きかった。
    • 1942年2月オーストラリア偵察のため出撃。
      搭載していた零式小型水上機による航空偵察によりシドニーに停泊中の艦船の情報を収集した。
      迎撃に戦闘機2機が上がってきたが、見つかることはなく帰還。
    • 3月7日、ニュージランドのウェリトンを航空偵察する予定だったが、悪天候により中止。8日に航空偵察を行った。
      12日、哨戒艇2隻に発見されるも振り切ることに成功。
      13日、オークランドを偵察し輸送船4隻を発見する。
      その頃、伊25に接近する輸送船が現れるが発見されることはなく去っていった。
      搭載機収容後、接近してきた輸送船を追尾し撃沈した。続けて輸送船と護衛船(重巡)を発見するが、見失う。
      19日、スバの偵察で停泊中の軽巡1隻、輸送船4隻などを発見。
      22日、重巡を発見するが追い越すことが出来ずに攻撃に失敗する。
      23日、偵察のためパラパゴに到着したが、悪天候により中止。
      30日、トラックに到着。4月4日に横須賀に帰還、整備を受ける。
  • 【アメリカ本土の偵察】

    • 5月中旬、ダッチハーバーを偵察するために出撃した。
    • 6月2日、シアトル沖に到着。シアトル沖近海で輸送船を発見、攻撃するも命中しなかった。
    • 14日にオレゴン州沖に移動、21日にはフラッタリー岬近海でイギリスの貨物船を発見し撃破した。
      カナダ海軍が捜索に来たが伊26が発見されることはなかった。
  • 【アメリカ本土砲撃】
    • 1941年6月21日、コロンビア川河口で浮上すると、潜水艦基地を思しき基地を発見、この基地を対地砲撃することを決める。
      アメリカ本土攻撃のひとつ「フォート・スティーブンス基地砲撃」である。
    • このフォート・スティーブンス基地は、潜水艦基地ではなく陸軍基地で、南北戦争時代に設置された。
      約2500人が駐屯し、配備されていた火器はいずれも旧式だった。
    • 16分の間に17発の砲撃が行われたが、ほとんどは野球場や沼地に着弾。
      基地に損害はなかったが、電話線切断で広範囲渡る通信途絶などの被害が発生。
      人的被害もなく、1人が戦闘配置につく際に転んで怪我をした程度。
    • 基地側では伊25を目視で確認していたが「敵艦は射程圏外」と誤認。
      敵の数も分からず、こちらの反撃で砲火を狙い撃ちされることを避けるため、防御態勢が取られていた。
      その後、訓練中だった航空機が伊25を発見、通報を受けA-29ハドソン攻撃機を出撃させた。
      A-29は伊25に攻撃を行うが、損傷を与えることはできなかった。
    • 逃げ切った伊25はそのまま27日にダッチハーバー南方沖に到着、30日まで同海域で哨戒を行った。
      偵察後海域を離脱し、7月17日に横須賀に帰還した。
    • この砲撃は第二次世界大戦中唯一行われたアメリカ本土砲撃だった。
      またアメリカ沿岸の通商破壊のときと同様に心理的ダメージが大きかったという(アメリカ本土侵攻、日系人強制収容など)。
  • 【アメリカ本土空襲】

    • 度重なる本土攻撃を受けたアメリカは1942年4月に日本本土への空襲「ドーリットル空襲」を行った。
      これに対する報復として日本はアメリカに空襲を行うことを計画する。
      このアメリカ本土空襲は山火事を引き起こさせ周辺地域の産業にダメージを与えることを目的に行われた。
    • 空襲作戦には伊25が選ばれ、1942年8月15日に横須賀を出発、アリューシャン列島経由で9月7日にオレゴン州沖に到着した。
      到着時は天候が悪く、天候の回復を待つために2日間、沖合で待機した。
    • 9月9日の深夜に1回目の空襲を行うことを決定、76キロ焼夷弾2個を搭載した零式小型水上偵察機を発艦させる。
      オレゴン州近くの森林部に投下、森林部を延焼させた。
      その後、無事に任務を達成し伊25に帰投した。
    • アメリカ側は、オレゴン州の森林警備隊が水偵を発見しアメリカ陸軍に通報している。
      通報を受けたアメリカ陸軍がロッキードP-38戦闘機が迎撃に出撃したが、水偵を発見できなかった。
      また突然の空襲を受けて、陸軍や地元警察が沿岸地域を捜索した。
    • その後、20日に2回目の空襲が行われた。
      1回目と同様に、76キロ焼夷弾2個を森林部に再び投下した。
      2回目の空襲でも特に反撃を受けることなく、無事に帰投した。
      予備の爆弾が残っていたが、警備が強化されたため、3回目の空襲を中止し帰投した。

  • 【ソ連潜水艦を誤攻撃】
    アメリカ本土空襲の帰り道、10月4日と6日にアメリカのタンカーを1隻ずつ(計2隻)を撃沈する戦果をあげた。
    10月11日にはアメリカ沿岸部でアメリカの潜水艦と思しき潜水艦を発見しこれを撃沈する大戦果をあげ、24日に横須賀に無事帰還した。
    が、この沈めた潜水艦はアメリカの潜水艦ではなく、ソ連の潜水艦「L-16」だった。
    ソ連側もL-15が潜望鏡で攻撃を確認していたが攻撃したのが日本軍とは判断できず、ソ連から日本に対する抗議や損害請求などは無かった。
    またL-16が沈没したことは公表されておらず、伊16の乗組員や日本海軍側も戦後までアメリカ潜水艦を撃沈したものと思い込んでいた。
  • 【輸送任務~その後】
    輸送任務では、ラバウルからブナへ物資を運んでいた。

    • 1942年12月にトラック諸島に向けて横須賀から出撃した。
    • 9日にトラックからショートランドに移動。
      ショートランド到着後、輸送物資を乗せてガダルカナル島へ向かったが、途中任務は中止される。
    • 14日にラバウルに向かい、17日に物資をブナに送り届けるが、途中アメリカの魚雷艇2隻に発見されたため揚陸を中止する。
    • 23日に再びラバウルに向かい、25日に輸送物資を再度ブナに届けたがアメリカ魚雷艇を発見した守備隊との連絡が取れなくなったため撤退した。
      28日に再度連絡を試みるも応答なし、諦めてラバウルに帰投する。
    • 1943年1月5日に輸送物資25トンを乗せてラバウルからブナに向かう。
      ブナで輸送物資を揚陸することに成功すると傷病兵70名を収容しラバウルに帰投。
    • 8日ラエ近海で第一八号作戦中に撃沈された貨物船日龍丸の生存者救出に向かい117名を救助した。
    • 9日にアメリカの潜水艦「グランパス」に発見されるが、逃げ切ることに成功。
    • 11日、輸送物資を乗せ再びブナへ向かい傷病兵35名を収容し帰投。
    • 17日にトラックに戻り、23日にガダルカナル島南東沖に向かった。
    • 29日にレンネル沖海戦の空襲支援を行ったが、スコールにより失敗。
      30日に曳航中のアメリカ重巡「シカゴ」を発見するが、伊25が攻撃する前に空襲で撃沈された。
      その後、アメリカ駆逐艦に爆雷を投下されたが被害はなく逃げ切った。
    • 2月17日にエスピリトゥサント島を偵察し、24日にトラックに帰投。
    • 3月29日にフィジー諸島に向かう。5月18日にアメリカのタンカーを発見し、砲撃で撃沈した。
      6月2日にトラックに戻る。
    • 7月25日にトラックを出撃、エスピリット・サントを偵察した。
      その後、消息を断つ。
  • 【最期】
    伊25の最期は諸説あり、アメリカ側の記録では駆逐艦「パターソン」が撃沈したことになっているが定かではない。
    10月24日に亡失認定された。

余談「アメリカ本土爆撃を成功させた勇敢な兵士」

  • 1942年にアメリカ本土を爆撃した藤田信雄は無事に戦後を生き残っていた。
  • 1962年、当時官房長官だった「大平正芳」からオレゴン州ブルッキングスの市長が日米親善として藤田をアゼリア祭りに招待したいという話を聞かされる。
    ブルックリンスはかつて焼夷弾を投下した場所のすぐ近くの市だった。
    ついに戦犯として裁かれるときが来たかと軍刀を持参し現地に向かう。
    いざというときは責任を取ろうと自決(切腹)を覚悟していたが、藤田を待っていた光景は思いも寄らないものだった。
  • 藤田はアゼリア祭りの主賓として盛大に歓迎され「たった1人でアメリカを相手に爆撃を成功させた勇敢な元兵士」として市民から賞賛を浴びた。
    この大歓迎に藤田は友情の印として「これは私の魂です。貴市に寄贈致します」と持参した日本刀を寄贈。
    これをきっかけに同市との交流がはじまり、レーガン大統領からは感謝状と星条旗(アメリカ国旗)が送られた。
  • 1977年にブルックリンスの名誉市民に任命されるが、その数日後に死去。
    藤田の死去はニューヨークタイムズ紙が全米に報じた。